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第1回「クライオニクス・発展講座」 

現象的意識の連続性について

(投稿日:2024年02月15日)

 

 

・「コピー」を再構築しても「意味がない」という観点

 

今回の「クライオニクス発展講座」は、『まんがでわかる クライオニクス論』に書き切れなかった事柄の中で「最も優先度の高い事柄」について解説します。

 
単刀直入に、その「最も優先度の高い事柄」とは何かと言いますと、それは「完全な私のコピーを未来で再構築しても、コピーと私とは意識(現象的意識)の連続性のない独立した存在」であって、「コピーは〈私〉ではない」という「重要な観点」の存在です。

 

この「コピーは〈私〉ではない」は、当たり前のことに思えて、それでいて非常に奥が深く、正しいように思えるけれども「真」なのか「偽」なのか結論はでていなく、おそらくは「証明が不可能」です。

 

ところで、この「コピー」の意味が「クライオニクスで保管された本人と同様の振る舞いをするだけ」である「本人を模倣したチャットボット的なAI」という意味での「コピー」であれば「答え」は簡単で、もちろん、「コピーは〈私〉ではない」は「正しい」となるのですが、今回、ここで議論の対象としている「コピー」とは、「情報的な側面では同一である完全なコピー」のことです。

 

先ほども述べましたように、この「コピーは〈私〉ではない」の真偽に関する議論は、結論がでていなく、明確に「これが正解」と「断定的に言い切ることができない状態」にあります。

 

しかしながら、この「コピーは〈私〉ではない」の「答え」は、「クライオニクスにおける蘇生時の問題」として、根本的なレベルで重要になります。

 

それは、「コピーは〈私〉ではない」が「真」であるならば、保管された本人が「コピー」になることが確定する「そのような特定の種類のクライオニクス」の使用は、「〈私〉という現象的意識の消失」を意味していて「残念すぎる結果」となるからです。

 

 

ところで、上記の「クライオニクスにおける蘇生時の問題」と類似性のある問題として、一般的によく知られているものに「どこでもドア問題」があります。

 

この「どこでもドア問題」は「一種の都市伝説系のミーム」で、あの22世紀から来た青いネコ型(タヌキ型?)ロボットが使う「ひみつ道具・どこでもドア」には公式設定とは異なる「恐ろしい機構」が採用されていて……という、ホラーに近い内容です。インターネット上で広まっている有名な話ですので、「どこでもドア問題」の詳細については、ここでは省略します。「どこでもドア問題」を初めて聞いたという方で、ホラー系に興味がある方は、検索で調べてみるとよいと思います(ただし、「かなり怖い話」です)。


・「生体」と「人工生命体(コピー)」、どちらで蘇生するか

 

さて次に、クライオニクスで目標として設定されてい「シンギュラリティ後の未来での蘇生方法」には、下記の2種類があることを説明しておきたいと思います。

 

 

クライオニクスで目標として設定されている蘇生方法

 

(1)もとの身体を有する「生体」としての「蘇生」

(2)完全なコピーである「人工生命体(コピー)」としての「情報的な蘇生」

 

 

まず、(1)の方法は説明するまでもないのですが、自身の体をシンギュラリティ後の医療技術で治療することにより、「生体」としての「蘇生」を目標に設定する方法です。

 

もう一方の(2)は、「生体」としての蘇生は難易度が高いので諦めて、電子顕微鏡などを用いて「全脳のスキャン」を行い「脳から情報のみを抽出」して、その情報を電脳に完全にコピーすることにより、「人工生命体(コピー)」としての「情報的な蘇生」を目標に設定する方法です。

 

 

結論を先に書いてしまいますと、(2)の「人工生命体(コピー)」としての「情報的な蘇生」を目標に設定する方法は、電脳へのデータの完全コピーという技術的な部分での無謀さ以上に、原理的に不確定な部分、つまり「コピーは〈私〉ではない」が「真」であるのか「偽」であるのかという、おそらくは「誰も答えを知り得ない領域」に結果が依存するので、「やめておいた方が無難だろう」としか言いようがありません。

 

しかしながら、理解しがたいことですが、このような「人工生命体(コピー)」としての「情報的な蘇生」を前提としたクライオニクスは実在します。これは、『まんがでわかる クライオニクス論』の268ページにある「補足説明」でも解説しています「アルデヒド安定化低温保存法(ASC : Aldehyde-stabilized cryopreservation)」という名称の方法で、「グルタルアルデヒドによる化学固定」を利用したクライオニクスです。そしてなぜか、このような方法を「クライオニクスの完成形」であるかのように認識している方々も一定数います。

 

上記のような方々は、どのような結果になるのか「わからない」としても、「その可能性に賭ける」というアグレッシブな方々なのかも知れません。しかしながら、このような「情報的な蘇生」を前提とした方法に賭けるというのは、おそらくは「コインの表と裏」を賭けるようなレベルの話ではありません。

 

これは、「完全に主観的な意見」ですが、「賭けとして成立しないほど、分の悪い勝負」になると、橋井明広は考えています。理由としては、「情報的に完全なコピー」である「人工生命体」を〈私〉と考えると、物事をシンプルに説明することができなくなるからです。

 

例えば、「全脳のスキャン」から得られた「デジタル化されたバックアップデータ」から、「1人目」の「人工生命体」だけでなく、「2人目」や「3人目」の「人工生命体」を起動させた場合に、「2人目以降」にある意識は「誰」になるのか。また、「1人目」と「2人目」を「同時に起動」させた場合は、結果はどのようになるのか。更には、起動した「1人目」が事故等で失われた後に「2人目」を起動させた場合では、それまで生存していた「1人目」と、凍結された時点での「オリジナル」、このどちらと「2人目」の意識は連続しているのか。

 

上記のような場合において、「これらの全てにある意識(現象的意識)は、連続性のない独立した存在である」とすれば、シンプルに説明できます。もちろん、シンプルに説明できることは、「正しいこと」の証拠にはなりません。しかしながら、「1人のオリジナル」が失われて、その後に「1人のコピー」が時系列的にも矛盾なく発生した場合に限り、「意識が移動する」という「特別な現象が起きる」と主張するのは、「消極的事実の立証の困難性」、つまり「可能性がないことを示すのは困難である」という部分に逃げているようにも思えます。


・「不可知な領域」、その対処法について

 

ころで話は変わりますが、ここまで「クライオニクスにおける蘇生時の問題」として説明してきました、「情報的に完全なコピーは〈私〉であるのか」という「現象的意識の連続性に関する問題」は、より普遍的な問題である「何をもって〈私〉は〈私〉であり、〈私〉として存在していられるのか」という「根源に対する問い」に帰属する問題で、その「一部分である」と考えてよいでしょう。

 

そして、この「何をもって〈私〉は〈私〉であり、〈私〉として存在していられるのか」は、哲学の「人格の同一性」・「〈私〉の問題」・「意識の超難問」という分野で議論され続けてきた問題であるのですが、今のところは学術的にも何が「答え」であるのか「わからない」ということが「わかっている」という状態です。

 

そして、今は「わからない」けれども、今後に「答え」が出るのかというと、この「人格の同一性」・「〈私〉の問題」・「意識の超難問」という分野は、「不可知な領域」であり、「究極の問い(なぜ何もないのではなく、何かがるのか)」と同様に、永久に「答え」が出ないままである可能性さえあります。

 

これでは、クライオニクスにおいて「どのような蘇生方法を目標に設定すべきか」について、いつまで待っても方向性が定まらないように思えますが、そうではなくて、「わからない」ということが「わかっている」ならば、これを「どのように捉えなくてはいけないのか」は確定できます。

 

ここで明確に示しておきたいことがあるのですが、「〈私〉という現象的意識の消失」は、実質的に本人にとって「世界を失う」に等しいので、「危機管理的な考え方」を適用すれば、原理的に「わからない」の部分については「そこには可能性がある」ではなくて「最も都合の悪い結果になる」と考えなくてはいけません。

 

結局のところ、「コピーは〈私〉ではない」という認識を前提にして「クライオニクスにおける蘇生方法」を決めなければ、クライオニクスは安心して使える技術として確立できないといえるでしょう。

 

 

実は、このような「わからない」の部分に「最悪」を想定する「危機管理的な考え方」の重要性は、クライオニクスのみに該当する話ではなくて、他の「不死性の獲得を目指すテクノロジー(例えば、マインドアップローディングなど)」にも全般的に該当する話であり、また更には、不死性を獲得する未来に人類が近付いていく過程で、おそらくは「必須の考え方」になると予想できます。「現象的意識の連続性」という「不可知な領域」の問題について、どこまでが「最悪」を想定しなくてはいけない問題で、どこからが「杞憂」といえる問題なのかという、判断が難しい部分もありますが、その点は「クライオニクス・発展講座」の回数を重ねるごとに、少しずつ解説していく予定です。

さて、「今回のまとめ」として、伝えておくべきことを再度確認しておきたいと思います。

 

このページの内容に興味を持たれた方々の中には、「将来的にはクライオニクスの使用を検討したい」という方や、「クライオニクス以外の方法でもいいので不死性の獲得を目指したい」という方が、少なからずいらっしゃると思いますが、その時に文字通り「生死を分ける」ことになるかも知れないので、「完全な私のコピーを未来で再構築しても、コピーと私とは意識(現象的意識)の連続性のない独立した存在」であって、「コピーは〈私〉ではない」という、この「重要な観点」は、ぜひとも覚えておいてください。

今回の「クライオニクス・発展講座」は以上です!

さて、いかがだったでしょうか?

 

 

「そんなことは指摘されるまでもなく十分理解している!」という感想や、「もっと面白い話をしてくれ!」という感想も出てきそうなので、このページを読んで頂いた方々に損をさせないために、もう1つ情報を追加したいと思います。

 

デジタル的な「バックアップデータ」を経由して「情報的な蘇生」を達成した場合、「それは〈私〉なのか?」という問題を、実にわかりやすくストーリーにまとめた「近未来が舞台のSFマンガ」が存在します!(そっちを先に紹介すべき?)

 

山田胡瓜先生の『AIの遺電子』という作品の「第1巻・第1話」の『バックアップ』というお話が、まさに「それは〈私〉なのか?」というテーマについて描かれています!!

 

『AIの遺電子』は、短編集の形式のマンガで、その他のお話も大変興味深い内容が多いです。秀逸な作品ですので「超おすすめ」です!!!

 

 

➡️ 『AIの遺電子(1)』

それでは、また次回の「クライオニクス・発展講座」で!!更新には時間がかかると思いますので、気長にお待ちください!
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