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動内容など

 

 このページでは、サイトの管理者である橋井明広の現在の「活動内容」と、「人類は不死性の獲得を目指して行動を開始するべきだ」という「考え方」などについて、説明したいと思います。

 

まず、現状で実動段階にある「活動内容」についてですが、「不死性の探求を肯定する作品を増やしていく」という「試み」を、『まんがでわかる クライオニクス論』という学習漫画を広めることを通して行っています。

 

この橋井明広の「不死性の探求を肯定する作品を増やしていく」という「試み」に共感を持たれて、クライオニクスをテーマにした小説などの創作物を書いてみたいという方は、下記のX(Twitter)の「橋井明広のアカウント」をフォローしてDMを送信して頂ければ、技術面での監修などで、可能な限りの情報提供を致します(新鮮な「ネタ」を取り揃えております!!)。また「既に作品がある」という方についても、広報活動などによる協力を積極的に行いますので、ぜひ、ご連絡ください!!

 

 

➡️ https://twitter.com/Hashii84gensaku

 

 

以下、なぜこのような「試み」を始めたのかについて、そして「人類は不死性の獲得を目指して行動を開始するべきだ」と考えているのかについて、順を追って説明します。まずは、「限りがあるからこそ」という「生命観」への疑問からです。

 

 

 

・「限りがあるからこそ」という「生命観」への疑問

 

(注:以下の説明には、『ゲド戦記』と『風の谷のナウシカ(漫画版)』についての「ネタバレ」の要素を含みます。)

 

 

「生命の尊さ」をテーマにした古今東西の創作物は、「死があるから生が輝く」という生命観・死生観で描かれていることが多く、「不死性の探求」については、なぜか否定されていることが一般的です。

 

そして、「命は何よりも大切」であるけれども「永遠を望むことは悪である」という、この「根底の部分に矛盾のある主張」を「いかに説得力のある形で上手にまとめるか」という難題に、これらの創作物の作者らは苦心しているように思えます。

 

児童文学の名作とされる『ゲド戦記』では、「生と死」を「光と闇」に例えて「対比すること」によって、「生は死のなかにこそあるものなれ」という結論を提示しています。話として「上手くまとめること」には成功していますが、「生と死」を「光と闇」に「例えた(置き換えた)こと」により、「問題の本質についての究明や解決を放棄している」と考えることもできます。

 

そして何よりも、「生命の尊さ」を肯定する作品でありながら、登場人物である「クモ(不死を望んだ魔法使い)」や「アレン(死を恐れている王子)」の「生きることに対する執着」については否定するという矛盾する結末になっています。

 

ところで、『ゲド戦記』は、各巻の「テーマの繋がり」という点で非常に優れていて、『影との戦い(1巻)』のテーマが「光と闇」で、『さいはての島へ(3巻)』のテーマが「生と死」となっており、「1巻」の結論が「3巻」の結論への伏線という構図で、非常に説得力があります。説得力があるがゆえに、他の作品への影響も大きいようです。

 

『ゲド戦記』の影響を強く受けていると考えられる作品に『風の谷のナウシカ(漫画版)』があります。全7巻の作品ですが、その最終巻の後半の場面では、科学文明に悲観したナウシカの思考がマイナス方向へと傾いていきます。そして、最後にナウシカは、「いのちは闇のなかの瞬く光だ」というセリフに続いて「お前達も闇に帰るが良い」と言い放ち、「コールドスリープ中の旧人類(の卵?)」を全て潰してしまいます。作品は、「過去に栄えた科学文明」を否定し、その復興を阻止する形で完結します。その後の作品世界の長期的な変遷については作中では描かれていませんが、旧人類の絶滅によって、科学文明の復興は絶望的になったように思えます。「おそらくは」という前提での予想ですが、文明の衰退と共に人類が滅亡する未来となり、「旧人類」・「新人類」・「文明」の全てが「闇に帰る」という結末になりそうです。

 

さて、この「死があるから生が輝く」という系統の生命観・死生観には、「ミーム(脳を媒介し自己複製する情報単位)」としての性質があるようで、過去の作品群だけでなく、近年の作品の多くにも形を変えつつ脈々と受け継がれています。例えば、『鬼滅の刃』の作中での「老いるからこそ、死ぬからこそ」という「煉獄杏寿郎」のセリフは、まさに「死があるから生が輝く」という系統の考え方が「自己複製」することを示しているようにも思えます。

 

『まんがでわかる クライオニクス論』では、主人公である「杉田マナカ」が、このような多くの作品で描かれている「古今東西で共通する生命観」に疑問を持つことからストーリーが始まります。

・「不死性の探求を肯定する作品を増やしていく」という試み

 

このように、「死があるから生が輝く」という系統の生命観・死生観は、「ミーム(脳を媒介し自己複製する情報単位)」としての性質を備えていて、創作物から作家へ、作家から創作物へと順々に伝播する形式よって、現在も増殖を続けていると考えられます。

 

ところで、「死があるから生が輝く」という、この類のミームの起源についてですが、おそらくは「あのブドウは酸っぱいに違いない」のような「手に入らないものを諦めるための口実」であっただろうと予想されます。これが現在にまで途絶えることなく残り続けているのは、「ある存在」にとって「都合の良いもの」であったためと、『まんがでわかる クライオニクス論』では仮説を提示しています。

(注:以下の説明には、『まんがでわかる クライオニクス論』のストーリー部分についての「ネタバレ」の要素を含みます。)

 

 

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その「ある存在」とは、「生物の設計図であるDNA」のことです。リチャード・ドーキンス氏の著作である『利己的な遺伝子』によれば、DNAは生物を「乗り物」として利用していて、そして、「増えるから残り、残るから増える」という自然界の摂理の中で「自己複製の成功率が高いこと」を至上の目標とする物質です。そのDNAにとっては、「乗り物」である人間が「個としての永続性」を求めても意味がありません。「個としての永続性」などというものは早々に諦めて、人間が「遺伝的なコピーを残すこと」を優先する価値観を持っていた方が、DNAにとっては都合が良いことになります。

 

「死があるから生が輝く」のような「ミーム」も、DNAと同様に「増えるから残り、残るから増える」という存在であり、これら「DNAとミーム」の二者の間には「共生」に近いような関係が成り立っているのかも知れません。

 

このような「DNAとミーム」との間にあると考えられる「協力的な関係」の下で、本来ならば尊重されるべきであった「個としての永続性」というものは「蚊帳の外」という扱いで軽視され続けてきたことになります。

 

ミームは増殖していく過程で「ヒトの脳」を経由する(宿主とする)のですが、その宿主である「ヒトの脳」の保持、つまり「個としての永続性」についてはミームから否定されるという有様で、DNAが「生物」を「乗り物」として使い捨てにするのと同様に、ミームも「ヒトの脳」を使い捨てにする構図になっています。

 

もちろん、人間が「限られた寿命」を受け入れるしかなかった過去の時代においては、「種としての存続(個体の増殖)」は「社会の継続」と同義であったので、「不死性を否定するミーム」にも役割があったのですが、シンギュラリティという概念に現実味が出てきた現状では、近い将来に役割を終えるミームであるように思えます。新しい時代に尊重されるべきなのは、「個体数を増やすこと(DNAを増やすこと)」ではなく「個としての永続性」であるはずです。

 

人類に「不死性を獲得する未来」があるとすれば、それは究極的な形で「生命の尊さ」が保証された世界であって、その時点に到達するための「最短を目指す戦略」の必要性は、世界人口が80億人に到達した現在に至り、より高まりつつあるように思えます。「本格的な人口爆発」の開始時は、第二次世界大戦が終了した「20世紀の中頃」ですが、人類はこの「20世紀の中頃」から「現在」に至るまでの期間の「どこか」の「より早い時点」で、この「最短を目指す戦略」を策定して、これを総力戦と捉えて実行に移す必要があったと考えられます。

 

もちろん、残念ながら歴史が示す通り「そのようには社会は動かなかった」ので、「使い捨てにされる脳」と、それに巻き込まれる形での「現象的意識の消失」、つまり「死」という現象は、近年においては「約5000万人/年 以上」という驚異的な数量が量産され続けています。そして、人類が今後も不死性の獲得を目指さないのであれば、人口増・高齢化と共に、この数値は年々増加していくと予想されます。

 

それでは、どのようにすれば、人類が不死性の獲得を目標に設定し、そこに最短で到達できるのかというと、まずは世論を変えるために「死があるから生が輝く」のような「不死性を否定するミーム」の「増殖を抑える」という観点がでてきます。

 

ミームが「ヒトの脳」を経由して増加することを考慮すれば、「ヒトの脳」が「自身の望む地位(不死性の獲得)」を素直に表現して、不死性の「否定」から「肯定」へと、複製するミームの種類を切り替えれば、自然と流れを変えることができるように思えます。つまり、「あのブドウは酸っぱいに違いない」のような悲観的な未来予想を捨てて、過去の生命観・死生観の影響下にある連鎖を断ち切り、「自身の望む未来を肯定するミーム」を作品に盛り込むという行動を作家が継続していけば、やがては世論を動かすことができるのではないでしょうか。

 

 

このような「考え方」により、橋井明広は「不死性の探求を肯定する作品を増やしていく」という「試み」を地道に行っていますので、賛同してくださる方は、ぜひ、橋井明広の

https://twitter.com/Hashii84gensaku 」のアカウントにご連絡ください!!

 

 

あと、小説などの創作物を増やすという方法では協力できないけれども、この「試み」に何らかの形で協力したいという方は、ブログなどで『まんがでわかる クライオニクス論』を紹介する記事を書いて頂けると非常に助かりますので、よろしくお願いします!!

・創作活動での互恵関係の構築について

 

現在、SF小説家の神楽坂らせん先生との共同企画で、『まんがでわかる クライオニクス論』の認知度の向上を目的にしたキャンペーンを、不定期で行っています。

 

このキャンペーンの具体的な内容ですが、『まんがでわかる クライオニクス論』を含む複数の作品の「Kindle版」を、期間限定で同時に無料設定にして、多くの読者に届けるというものです。作品の認知度の向上という点で「相乗的な効果」が望めますので、「Kindle版」をKDP(Kindle Direct Publishing)で出版されていて、電子書籍の出版権を自身で所有されている作家の皆様は、ぜひ、このような活動への参加もご検討ください。この件についても、ご連絡は

https://twitter.com/Hashii84gensaku 」のアカウントにDMでお願いします。

 

 

キャンペーンに参加する作品の条件としては、「不死性の肯定」がメインテーマの作品であることが望ましいのですが、「不死性」とは関係はないけれど「この小説をもっと多くの人に知ってもらいたい」という作品でもOKです!

 

逆に、参加が不可な作品ですが、これは当然ですが「死があるから生が輝く」という内容の作品はNGに分類しています。あと、もう1点、活動の趣旨的にNGに設定している種類の作品があります。「情報的に完全なコピーは〈私〉である」という前提で書かれていて「コピーである人工生命体となり不死を得る」という内容の作品もNGということでお願いします。具体的には、SF作品でよく登場する「精神転送(マインドアップローディング)」という技術が使用されていて、登場人物が「現象的意識を発生させている脳という物質的な基盤」を捨ててしまうけれども、「コピーである人工生命体」となり不死を得るという内容の作品です。

 

このような作品がNGである理由については『クライオニクス発展講座・第1回』の『現象的意識の連続性について』でも解説していますので、そちらもご参照ください。端的に理由を説明しますと、「コピー」になるような方法では、それが「情報的に完全なコピー」であっても「目的としていた不死を本人は得られずに非常に残念な結果になる」と、橋井明広がそのように考えているからです。小説はハッピーエンドで完結していたとしても、それが実社会で模倣されると「どこでもドア問題」を再現したシステムが完成する「最悪の展開」になるので、そのような流れは避けたいと思います。信じがたいことかも知れませんが、海外では過去のクライオニクスの動向として、「情報的に完全なコピー」を本人だとする考え方に基づいた「アルデヒド安定化低温保存法(ASC : Aldehyde-stabilized cryopreservation)」という方法が注目されていた時期があります。

 

 

 

・SF作品で描かれる「不死性」の捉え方について

 

ところで、『まんがでわかる クライオニクス論』の読者の皆様から、「SF作品には不死性を否定する作品だけでなく、肯定する作品もあるのでは?」というメッセージを多く頂いているのですが、この点については多少複雑な問題があるので、話が長くなりますが、この項目で説明をしておきたいと思います。

 

実は、不死性をテーマにしたSF作品では、前述の「情報的に完全なコピーは〈私〉である」という発想そのものが、作品世界の「初期設定」として採用されていたり、もしくは、そうでない場合でも、「どこでもドア問題」を「技術的設定」によって回避できていたりと、「現象的意識の連続性」という難題を「作中では解決できている」という立場をとっているものが多くあります。

 

しかし、現実的な問題として、「現象的意識の連続性」というものは「実証実験で確認できない」という特性があります。それは、「現象的意識の連続性の途絶により〈私〉は消失した」という事実を他者に知らせることが可能な〈私〉というものは「矛盾していて存在し得ない」からです。

 

つまり、実際には「結果がどのようになるか」について「実証実験で確認できない」という「不可知」な部分を、その作品世界のルールの全てを決定できる作者が「作中での設定」として「解決できている」と決めていることになります。

 

特にSF作品の中でも、「小説」として「疑似的な一人称の視点」で描かれている作品では、この「不可知」な部分の「作中での設定」が、「特殊な表現方法」によって示されていることがあります。その「特殊な表現方法」とは、主人公が「生体」を廃棄すると共に「現象的意識を発生させている脳」までも捨ててしまい「情報的に完全なコピー」である人工生命体となった時点において、「その作品が完結しないこと」です。何事もなかったかのように物語が続くことによって、「現象的意識の連続性」が保たれていることが表現されています。

 

ここで重要であるのは、一般的に「一人称の視点で描かれた作品」として分類されている小説は、正確には「疑似的な一人称の視点で描かれた作品」であるという点です。「現象的意識の連続性」が「本当に保たれているのか」という「本人を含めて誰も知り得ない結果」について「読者という視点によって知ることができている」のであって、実際には作中の登場人物たちは「結果を知る手段」がありません。

 

もちろん、グレッグ・イーガン氏の作品のように、この問題点を鋭く考察している作品もあります。例えば、グレッグ・イーガン氏の短編集『祈りの海』にある『ぼくになることを』では、この「現象的意識の連続性」がテーマになっています。そして、この作品では〈私〉という存在の「バックアップシステム」である「宝石」という装置が登場しますが、作中の登場人物の中には「装置が目的の機能としては役に立たない危険性」を認識している人達もいて、その危険性に恐怖している描写があります。

 

 

ところで話は変わりますが、この「情報的に完全なコピー」という発想自体が、実は「DNAによる支配」から抜け切れていない発想であって、生物の自己複製という本質を忠実に再生産した発想のように思えます。「コピーを作る」という行為は「種としての永続性」という目標の達成手段であって、結局は、「現象的意識を発生させている脳という物質的な基盤」を失ってしまう時点で、どのように方法が変化しても「個としての永続性」という目標に対しては、残念ながら無効であるように思えます。

 

「遺伝的なコピーを作る(子孫を残す)こと」によって死から逃れることができないのは自明ですが、それは「遺伝的に完全なコピーを作る(クローンを残す)こと」についても同様です。そして、それが「情報的に完全なコピーを作る(脳のコピーを残す)こと」に変わっても、おそらくは同じなのですが、そこに〈私〉という存在があって欲しいという願望が混じり、SF作品中で幾度も「現象的意識の連続性」が保たれている形で描写されることによって、それが作品世界における作者の「設定」であるということが認識されにくくなっているように思えます。

 

 

それでは、やがては来るであろう「シンギュラリティ後の世界」において、どのようにして「ヒトの脳」という「いつ壊れるかわからない脆弱な器官」に閉じ込められている〈私〉という存在を維持し「個としての永続性」を達成するのかという問題ですが、これは「ニューロン単位で逐次的に人工的な素子に置換していく」という方法が、「現象的意識の連続性」という観点で一番に無難な方法であるように思えます。もちろん、どの程度の置換速度まで許容されるのかという問題もありますが、それは「誰も答えを知り得ない」という特性上、「可能な限り低速の置換速度で」ということになると思います。

 

この他の方法としては、「精神転送(マインドアップローディング)」という方法において、「SF作品で描かれているような瞬時に完了する形式」でなく、「長期の同調期間をかける形式」を採用して、逐次的に役割を外部装置に置換していく方法も考えられます。これは前述の「ニューロン単位で逐次的に人工的な素子に置換していく」という方法と、「逐次的に」という部分の発想が同じで、それが行われる場所が「頭蓋内部」なのか「頭蓋外部」なのかが異なっているのみと捉えることも可能です。

 

どちらの方法が採用されるにせよ、「ヒトの脳」が「生体として機能していること」が前提となり、このことからクライオニクスは、「生体として蘇生できる」という条件を満たすことが必須になると橋井明広は予想しています。

 

 

 

・脱DNAプロジェクトについて

 

 次は「脱DNAプロジェクト」での活動についてです。『まんがでわかる クライオニクス論』を既読の方はご存知であると思いますが、橋井明広は「脱DNAプロジェクト」に所属して活動を行っており、『まんがでわかる クライオニクス論』の作中でも終盤に「プロジェクトへの参加」を呼び掛けるセリフを盛り込むなどして、新たな参加者の募集を行っています。

 

『まんがでわかる クライオニクス論』の「第4章・第5章」あたりに関心を持たれて、このようなクライオニクス実用化の方向性に賛同し、プロジェクトに参加して頂ける方は、下記の「脱DNAプロジェクトのオフィシャルサイト」の「Contact」ページから、ご連絡をお願いします。

 

 

➡️ https://sites.google.com/view/de-dna/contact

 

 

こちらのサイトは「脱DNAプロジェクト」の主催者である教授が管理していまして、メッセージ欄にご用件を入力して送信して頂ければ、直接に主催者のところにメッセージが届きます。メッセージ欄にメールアドレスなどの返信可能な手段を入力して、ぜひ、ご応募ください。現在もプロジェクト参加者を「絶賛募集中」です!

 

 

ところで、現時点でプロジェクトの進捗についての簡単な現況報告ですが、順調に活動規模を拡大できているのかというと、予想していたような速度での規模拡大は、残念ながら達成できていません。

 

『まんがでわかる クライオニクス論』の発売開始以降、SNSなどでの広報活動により「クライオニクスについて関心を持ってもらう」というステップと「作品を読んでもらう」というステップを経て、「作中での主張について賛同的な評価を得る」というフェーズまでは極めて順調に進んでいるのですが、「プロジェクトのオフィシャルサイトにアクセスしてもらってコンタクトを得る」というフェーズになると、途端に「係数としてゼロに近い値がかかる」という状況です。

 

この原因について、『まんがでわかる クライオニクス論』の書評などを読みつつ原因を分析してみたのですが、「不老不死を目指す」という目標についての社会的反発の強さから、「プロジェクトへの参加はハードルが高い」と感じている方が多くいるように思えました。

 

確かに、21世紀の約1/4が経過した現在においても、未だに「不死性の探求者」に対する創作物での役割は「悪役」という傾向が残っていて、クライオニクスに対する世間一般の評価も同様で、あまり良いイメージでは認識されていないようです。

 

このような世論を変えていかなければ、プロジェクトの参加者は増えて行かず、活動規模も拡大できずに停滞したままだろうと考えて、前述のように橋井明広は「不死性の探求を肯定する作品を増やしていく」という「新たな戦略目標」を設定して、世論の改善を目指した活動も行っています。こちらの活動については、プロジェクトへの参加は必須ではありませんので、「ハードルの高さ」という問題も解決できているのではと思います。地道な活動ではありますが、不死性について好意的な支持層を増やすことにより「裾野の部分を広げていく」という活動も、長期的な視点で非常に重要であると橋井明広は考えています。

 

もちろん、「ハードルの高さ」なんて一切気にしないし、「DNAの乗り物という立場から人類は早く抜け出すべき」と強い信念を持たれている方は、プロジェクトへの参加についても、ぜひ、積極的にご検討ください!!

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